眩暈(湯草ss)
――静寂が、乱れる。

何も感じる事が出来なかった空間に今まで存在し得なかった香りが迷い込んで、草薙はうっすらと目を開けた。
ぼんやりとした視界を瞬きによって明瞭にすれば、それにあわせて少しずつ意識が浮上してゆく。
眼前に広がるのは見慣れた天井で、ふと上体を起こしかけて草薙は、やめた。
知れず小さな呻きが漏れる。
身体に、僅かな痛みが走ったからだ。
それで全てを思い出す。
なら、この部屋のどこかに“彼”がいるはずだった。
一人暮らしであるこの部屋に、突然香りが沸いた理由も頷ける。
しかし、コーヒーの香りというならともかく、この香りはありえない。
前者なら、トーストの焼ける匂いも合わさって至福の時を思うだろうが、これは・・・紫煙だ。

煙草だ。

草薙は、ゆっくりと視線だけを走らせて、湯川の姿を探した。
全ての理由は彼にある、・・・というより彼にしかない。
草薙はご多分に洩れず愛煙家の部類に入ると思うが、彼の前では吸わないようにしているからだ。
そう絶対に吸わない。
プチ禁煙というべきその行いは少々身に堪えるが、これは身についた知恵のようなものであると思う。

と、広くない部屋の中を見渡して、草薙は思わず目を見開いた。

決して見惚れたわけではない。
相も変わらず散らかった部屋の隅に、湯川は片膝を立てて座っていた。
細く窓を開けて滑り込む風のせいかその髪は僅かに揺らいでいる。
窓の外を見やる湯川の感情は読めなくて少し戸惑ったが、膝の上に乗せられた指に視線が捕らわれた。
細長くしかし節くれだった指にあるのは、一本の煙草。細い煙が天井に向かって不思議な紋様を描いている。

景色が揺らぐ。
汚い自分の部屋と湯川の存在と煙草と、何もかもがミスマッチだった。

眩暈が、した。

湯川は、草薙のその視線に気が付いたのだろう。
自然な仕草でそれを口に持っていき軽く吸い込むと、紫煙を吐き出して目を細めた。

「おはよう」

おはよ・・・と思わずに口にしかけて、草薙は慌てて首を振る。

湯川が煙草に口をつけた。
っていうか、草薙に煙草を吸わせないよう仕向けてきたのは湯川自身じゃなかったか?

「そんな事より湯川、お前・・・っ!!」

反射的に起き上がり指を突きつけて、どうやら少しパニックに陥っている草薙の様子は、彼とって予想の範囲内だったに違いない。
驚きもせず、シレッとしている。

「なんだ?」
「煙草は嫌いじゃなかったのかっっ??」
「嫌いだが、吸えないわけじゃない。」

「・・・・・・・・・」

あー、と草薙は思った。
頭をがしがしとかく。
そうだった、忘れていた。
彼は湯川だ。こういう奴だった。
言ってやろうと思っていた言葉は、それだけで霧散してしまった。
一人熱り立ち、そして瞬間悟ったような表情を見せた草薙に、湯川は笑った。

「大して意味はない。」

指に挟んでいた煙草を近くにあった灰皿に押し付けると、湯川は静かに立ち上がった。

「?」

ゆっくりと草薙に歩み寄ると、膝を折る。
鼻腔をくすぐる湯川と煙草の香りに、眩暈がしそうだった。

「そろそろ君が、吸いたい頃じゃないかと思ってね。」










草薙は、思い切りその香りを吸い込んだ――。

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